現代アート作家丸田恭子のブログ
アートに関すること、作品を通じて思うこと、美術業界のことなど中心にいろいろ
書いていきたいと思います。
写真は文章と関係ないことが多々ありますが、あしからずです。
コメントも大歓迎です。過去のブログにさかのぼって書いていただいてもかまいません。
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2013年
10月
30日
水
メキシコ遺跡
写真の前半はティオティワカン、メキシコシティーから車で1時間ちょっとのところにある広大な遺跡。紀元前2世紀から6世紀にかけて栄えたメキシコ最大の都市国家遺跡。当時20万人が住んでいたと言われています。これは本当にすごいことです。どのような言語が使われていたのか、その後謎の滅亡とともにどこかに消えてしまい今も解明されていません。毎日毎日生け贄が行われていたとか、、。
後半はメキシコシティの中心地、1979年に8トンの石板が出土しそれから発掘が始まり巨大ピラミッドの一部を見ることができます。この遺跡はアステカ帝国の都テノチティトランの中央神殿であることがわかったそうです。どのような生活を当時行っていたのか思いが膨らみます。
そもそもメキシコシティは先住民のアステカの時代には湖上に浮かぶ大きな都市でした。(人類学博物館にはその当時の地図がありました)それをスペインが植民地にしてすべて埋め立ててしまったという場所です。遺跡の上の建っている都市と言ってもいいかと思います。
それにしても当時の湖上に浮かぶ夢のような都市を見てみたいものです。
2013年
10月
28日
月
メキシコシティ−風景photo
標高2000メートル以上かなり寒いかと思いきや10月初旬のメキシコシティ−はとても暖かく昼間はT−シャツ一枚で大丈夫でした。そして東京を越える人の多さにびっくり。
2013年
7月
21日
日
作品から詩が誕生
宇フォーラム美術館にて八覚正大さんとのステキな出会いがあり
ました。小説や詩に縁遠かった私に新鮮な風を吹き込んで下さり
なんと作品に詩を書いてくださいました。感謝。
八覚さんは日本現代詩人会、日本詩人クラブ会員の詩人でもあり、
新潮新人賞を受賞した小説家でもあります。
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「旋回するウラン」 八覚正大
理屈はすべて後付けだ――
物質の
元を極めるカーチェイス
実験という橋渡しが
少し後から顔を伏せ
付きしたがってはきたのだが……
白衣の下のエネルギー
抱えきれずに一瞬に
宇宙の果てまで走りだす
白衣脱ぎ捨て認識の
制御をはずし音楽の
刹那の快感掠めもしながら……
――己の行為にすべてをかける
探す 探していく
探しつづける……旋回しながら
現れては消え また現れ出てはたゆたい
アクリルとエナメルに仮託された
途方もないエネルギー
激しくゆがみ 旋回を繰り返して
道を押しつぶす
道を 十字路を
飛行場を……十字架さえも!
竜巻のようにカンバスを席巻しつづけていく
それでもしばしの安定が 超電導のようにやってきて
――超高速度のアストラル体 の動中の静
再び移動を開始したウランは
場をもとめ 場を縛り 場に浸透し
場の存在を導きひらいていく
すでになした旋回を
後付けるように 時間をかけて
何度も何度も塗り重ね……
エネルギーの高い「いまここ」も
やがては記憶となって後付けられる
その宿命を感じつつ……
それでも探す! やはりまだ
まだまだ
まだまだまだまだ
まだまだまだまだまだまだまだまだ
だだだだだだだだだだだだだだだだだだ……
探す旅 旅そのものの旋回!
重力に撓められた空間が
高次の次元に向かいつつ
その入口開く瞬間を
見たいのだ
どうしても
それが 初めての人間だとしても
―――丸田恭子の画の躍動に
2013年
3月
09日
土
細胞間のコミュニケ–ション
動物同士や植物同士は人間とは全く異なる方法でコミュニケーションをと
っているのは間違いないと思うのですが、それでは一体細胞間同士はどう
やって会話しているのか。
昔から疑問だったのは精子と卵子が結合しめでたく受精卵ができ、その後
細胞分裂を繰り返し様々な臓器や器官が創られていくわけですが、まった
く同質の細胞のどれが心臓になり足になり血管になるという決定をどうや
って決めているのかということです。
どの細胞がどの部分をつくるか『シグナルセンター』と呼ばれる細胞が周
りの細胞に指令を出すと言われているようですがそのシグナルセンターな
る細胞はどうやって決められるのか疑問です。いずれにしても隣り合う細
胞同士の会話はシグナル経路が関わっていることが見いだされてその解明
がされつつあるようです。
微生物の研究では病原菌のセラチア菌もその1つで普段はおとなしくして
いても、仲間が増えてくるとそれぞれがシグナルとなる物質を放出し、ま
るで言葉を交わすようにその濃度により周囲になかまが増えてきたことを
察知するというのです。
粘菌の研究はおもしろいもので株と株のつながりを作る時に鉄道網と非常
によく似た最短距離の繋がりを作るそうで、単細胞生物の粘菌に知性が存
在しているという画期的な発見だと思うのですが一部の人達の間でのみ話
題になっています。
またある学者さんは細胞という個体の実態を『気分』という言葉で定義し
ています。まるでその細胞に感情でもあるかのように。
受精卵の細胞分裂から始まり、ある時ある細胞は「じゃー私が心臓の担当
になるからあなたは血管のほうをお願いね。」と。またある細胞は「わか
った、じゃー私は手のほうを担当するからまかせといて。」なんて会話が
なされているのかもしれません。
そんな『気分』が反映されて生物の均衡が創られているようにも感じます。
2013年
1月
13日
日
上海ビエンナーレ他写真
上海万博の跡地の一角、メーン会場は発電所を改装したという建物で上海ビエンナーレが開催されていました。ロンドンのテイトモダンの大きさ程ではないですが入ってすぐの巨大吹き抜け空間は圧巻。先月行った時の写真です。会場の上の階では別の企画展も行われており、最上階の見晴らし抜群のレストランのメニューはというとi-padでした。
2012年
10月
26日
金
曖昧の本質とは
夢の庭画廊での展覧会:丸田恭子展「地球の真中でYESと言う」
の期間中、2012年10月6日会場にて工学院大学機械システム
工学科元教授の岡雄三先生をお迎えして「曖昧の本質とは」と
いうタイトルでギャラリートークを行いました。
今ここで内容のすべてをお伝えするのはむずかしいですが、岡
先生との最初の出会いは新宿のギャラリー1での展覧会でした。
一般的に循環はシステム工学的には曖昧の構造として良くない
こととして捉えられていた事柄をこの作家は循環を良きことと
して捉えしかも会場に負けない迫力の作品群に1時間に渡り見
入ってしまったというとても光栄なお言葉をいただき恐縮至極
でした。
人間を含むシステムを扱うシステムエンジニアのちょっとむず
かしいお話や感性工学のお話をお聞きして、KANSEIというの
はそのまま英語になっているということも初めて知りました。
曖昧から私がお思い浮かぶこととしての話も少しさせていただ
きました。
量子の世界では素粒子の位置と運動量は同時に測定できないと
いう矛盾は曖昧そのもので、すべての物質の存在の本質は曖昧
以外のなにものでもない。
また絵画は視覚表現の中唯一二つの次元にまたがるメディアで
あり一番曖昧なものだから魅力的でもある。などなど
そして時間のあるなしに関してもお聞きしたところ工学的にも
時間は存在しないと言明されていました。
曖昧という構造は私達のまわりに当然あることとして肯定的に
受け入れたかたちで研究されており、「内部に複数の考え方を
内包している状況を指していると解釈している」。ーだから
「曖昧はあらゆる可能性の母体である。」という言葉が印象的
でした。(後のメールでのやりとりで受けた文章です。)
循環と螺旋の違い、時間、絵画の概念の1つとして使っている
浸透との関係などなど多義にわたり、短い時間の中でとても足
りなかったとは思いますが、「あいまい(循環)の真中からK
ANSEI(感性)を見る!」そして「感性基礎論構築のための一
提案」と題して11ページにもわたり資料をご用意して下さっ
た岡先生と、遠くからお集りいただいた方々に心からお礼申し
上げたいと思います。
人工知能や量子コンピューターの話などもお聞きしたかったな
と後で思いましたが、それはまたの機会に、、。
2012年
7月
28日
土
抽象という絵画
20世紀美術において抽象は飛躍的にその領域を深めました。
主に抽象画を描いてきてる者として描き出した当初のことを少
し振り返ってみました。私自身の中では純粋にまっさらの状態
で絵画に取り組むという過程で具象画から抽象画への移行はあ
まりにも当然であり、必然から生み出されてきたという極々自
然な変化であったように感じます。何が観者の奥に届き爆発さ
せるのかを考えた時、具体的な形はじゃまになっっていったの
です。
ただモダニズムという歴史を背景に抱えながらそれが無意識に
作用していたのかということの検証も必要かもしれません。
よく抽象画において何か具体的なものが画面の中に見えてしま
った時、百も千もあった思考の広がり奥行きがが瞬時に陳腐な
ものへと化してしまう事がが多々あります。最初の意図が流さ
れる瞬間です。また得てしてその逆も起こることがありますが
、、。
音楽と比べて歌詞が具象、楽器演奏が抽象という見方もできま
すがただ単純に抽象が上位に位置するというわけではなく、そ
して絵画に関していえばいわゆる具象画もすべて抽象画である
という見方ができます。
「抽象」と「捨象」とは表裏一体。捨象(しゃしょう)とは事
物または表象からある要素、側面、性質を抽象するとき他の要
素、側面、性質を度外視すること。
どんな写実絵画でも形態の無化に向かうミニマリズムであろう
と画面を構成する時には大小の差こそあれ必ずこの行為はつき
まとってきます。
「抽象化」は人類が発達させてきた極めて重要な能力の1つで
あり、たとえば数学では思いっきり捨象してようやく物事の本
質が見えてくる学問であるそうですが、すべての分野で抽象的
思考力を鍛える必要性が唱えられています。もちろんビジネス
においてもしかりです。
ちょっと横道にそれてしまいましたがまた話を元にもどして、
そもそも抽象画、具象画という分け方自体の意味合いが薄くな
ってしまいますが、生きた世界、何ものかへとたどり着くため
の手がかりとしての重要な概念であることに変わりありません。
最近は画面上具体性、抽象性の境界線上にある抽象性に気持ち
が惹かれます。
2012年
5月
01日
火
素数の神秘
昔学校で習った素数(2、3、5、7、11、13、、、、、)
なんとも気まぐれに並ぶこの数達に宇宙や大自然にかかわる物理
法則の秘密が隠されていたとしたら本当に驚きです。
レオンハルトオイラーは素数に注目、この不規則に並ぶ素数階段
を根気よく調べ上げなんとあの円に関係するπとの関連を見いだ
しました。その後、カールフリードリッヒガウスは螺旋の形を意
味する自然対数表との関係を探し出し自然対数表の定数eに関係
することを突き止めました。
そしてあのベルンハルトリーマンはオイラーが導き出したゼータ
関数を表にしてみたところここで0点がすべて直線上にあるはず
というあの有名なリーマン予想を打ちたてたのです。
その後数々の天才数学者達はその予想の証明にあたるべく自殺者
も出るほど困難さの極みに、その存在は敬遠されるものとなって
いきました。
そんな中、注目すべきは飛躍的に突破口を開く事になったある出
来事があったのです。
1972年、数学者のヒューモンゴメリーと量子物理学者のフリー
マンダイソンがプリンストン高等研究所での3時のお茶の時間、
モンゴメリーの注目していた0点同士の間隔が無秩序でないとい
う数式をたまたまダイソンに見せたところ、なんと彼が研究して
いる重い原子核のエネルギーの間隔と同じであるということがわ
かったです。
これぞまさに異なる分野の「浸透」ということでしょうか。
その後リーマン予想の証明に一生をかけて取り組んでいるハイド
ブランジュによって幾度もの失敗を乗り越え証明したという書類
が提出されることとなりました。ただそれが正式に受け入れられ
るのは多くの数学者の審査を経て2年くらいはかかりそうという
ことです。
あんな気まぐれとしかみえない数字の並びに意味があってリーマ
ン予想と量子物理の素粒子というミクロの世界とにつながりがあ
ったとは驚き以外のなにものでもありません。本当に興奮します。
今、コンピューターの個人情報や軍事機密が保護されているのは
この150桁を越える巨大素数を使った暗号によってなのだそうで
すが、素数の謎が完璧に解明されてしまうとこのシステムがぱあ
になってしまうので関係者はぴりぴりしているそうです。もうす
でに解明されているけどひた隠しにされていたりして、、、、。
2012年
3月
14日
水
価値あるもの
かつて小説家のヘンリージェイムズは、アーティストの制作物
を考える時、有効的な3つの質問を提唱したそうです。
「アーティストが成し遂げようとしたことは何か?」
「そのアーティストは成功したか?」
「それを行なう価値があったか?」
観る者のバックグラウンド、素養にかなり左右される事は当然
ながらも1つの見方として的を得ており中々辛辣でもあり、正
直今までこのような三段階的見方をしたことがなかったため興
味深くいろいろな作品に置き換え思いをめぐらせてみました。
作品を前にこのアーチィストは成功したがそれを行う価値はな
かったとか、成功はしなかったが行う価値はあったとかこのテ
ーマであれやこれや言葉が飛び交うことになるのは予想されま
すが、価値があったかなかったかの検証これは手厳しい限りで
す。
では行う価値とは価値あるものとは何なのでしょうか。
それを考えていた時思い出したのが、かなり前のテレビ放送に
なりますが、ハーバード白熱教室の日本出張教室でのお題でこ
んなものがありました。「ゴミ箱に捨てられているものを使っ
て価値あるものに変えて下さい。」グループごとに分かれて、
実際に使用できるにものに変換させたり、あるいはゴミを使っ
て調査実験したデータ(人々の意識がそれによって変わるので
はないかという期待)の提出であったりとおもしろく見た記憶
があります。これは確か起業家を育てるための授業であったよ
うに思います。
価値あるものへの転換、これはまさにアーティストが目指すこ
とでもあり作品に求められるものなのだと思います。
ただ価値とは人種により時代により地域により個人によりまっ
たく異なるものであるとともに作家自身にとってみれば価値の
ない行為など存在するとは思えません。
作品が他者にされされた時初めて価値が問われる訳で、アーテ
ィストは目の前に全面的に価値という言葉を掲げて制作はして
いないと思いますが、後から評価の対象として真価が問われて
くることになるにしても、作品を前に観る人達が幸福な面持ち
で、あるいは真剣な顔つきでけんけんがくがくやることはとて
も重要、価値あることだと思います。
2012年
1月
23日
月
3.11後絵画を通して
3.11後世界は一変してしまいました。
災難の遭遇時、困難の度合いが高い程人間の本質や物事が
あからさまに露呈してきます。
正義、良きものとして世の中にまかり通っていたものが広
く深く蔓延る腐敗したまやかしの構造であったということ
に加え、思考の甘さ、情報操作、関心の低さなどなどその
本質を否応なく浮かび上がらせてくれました。
この大震災、原発事故を通して私達は根源を見つめ直す、
原点に立ち返るという事の大切さ、何が本当に必要なもの
なのか改めて考えさせられた気がします。
その根源を見つめ直す作業と言えば、芸術はその代表の一
つと言えるかもしれません。
新しい価値の構築、創造とは常に過去に存在していたもの
の見直しの連続から生まれてきます。人間の本質である心
の奥に呼応するような作品を、そしてさらに原点に戻ると
いう思いを一層強くした次第です。
そもそも芸術の使命、責任とは何なのか。
作品の前でのみ感じることのできる開放感、至福感、頭の
中を縦横無尽に動く思考への刺激、あるいは覚醒、不思議
という感覚、、、を通して意識が変わるというその本質を
示すことが究極の目的であって、世界のどこかで何かが変
わっていくことへの貢献これこそが本当に目指すべきもの
であると強く自覚することができました。
美術の歴史に上げられてきたものあるいはこれから歴史に
残りそうなものまで含めて堕落の始まりであったのか、荒
廃なのか進歩なのかも検証していく必要があると感じまし
た。
そして、芸術を通して芸術とは何かという問いと答えが得
られると思います。
これからも、創造という無限の可能性も持つ大きな大きな
世界の中で真摯に作品に向かいより挑戦、冒険するという
方法以外考えられない気がします。
2011年
10月
31日
月
いい作品とは
決して短いとは言えない年月作品を制作してきて言えることは
注目する作品というのは少なからず両極の要素を含んでいると
いう事です。
それがあからさまに見えない場合でもよく見ているとそれがひ
たひたと漂ってきて心を鷲づかみにすることがあります。ただ
ただ静かな本当におだやかな作品であってもそれを徹底的に追
求されたものであれば見事な強靭さが画面に立ち現れてきます。
わかりやすいところでは重い素材を扱っていても軽さを感じる
とか、無邪気で明るい中に毒が絡め込まれているとか、あるい
は生でもない死でもない混在した状態であったり、聖と俗、光
と闇などなど、、、沢山上げることができます。
それをどのように織り込めるかは作家の力ということになるの
でしょうか。
さて私の制作においてはどうかというと思い描くのはこんな感
じになるかもしれません。
「どこまでもどこまでも透明なでも密度のしっかりした強さが
ありながらたおやかさを合わせもち、ものすごい早さで力強く
動くその喧噪と同時に穏やかな広がりと静寂さの中にいる。」
このような両極の要素に反応するのは私達の取り巻く環境が自
然がそういう要素で成り立っていて当然私達自身もそういう成
り立ちのもと心の奥深くでそれに呼応するのだと思います。
一番身近な精神と物質(体)の関係すなわち毎日ものすごいス
ピードでその対話がなされているその関係を見れば当然である
と納得せざるを得ない気がします。
2011年
9月
26日
月
早まる時間
最近時間の経過がやけに早く感じるのはどうも私だけではない
ようです。ついこの間新しい年が明けたと思ったらあれよあれ
よという間に夏が過ぎもう秋がきてすぐに12月そしてまた新
しい年へと。
正確な理由は定かではありませんがどうも多くの人がそう感じ
ているようです。(子供の頃と比べてということではなく)
話は少し変わりますが、時間といえば2日ほど前に大きなニュ
ースが飛び込んできました。「ニュートリノが光速を越えた。」
これに関してはまだ検証が必要との見解もあるようですが、も
し本当であれば物理学の根底を揺るがす大発見です。
アインシュタインの理論によれば光速に近くなると時間はだん
だん遅くなり光速で時間が止まることに。光速を越える物体は
「負の質量」を持つことになり時計は逆に進み、結果から原因
が生まれるというまさにタイムマシンの基礎となるわけです。
1995年に描いた絵のタイトルが「マイナスの質量」。実際に
はありえないものとしてつけましたが、しかしなかなかのプラ
ス発想であったと思います。
そして先月のニュースでは来年時空の素粒子を求めてアメリカ
で実験が行なわれる予定とのことです。時間や空間はなめらか
なひずみのない連続したものとばかり思っていましたが、量子
力学の素粒子のように最小単位(素空間、素時間)があるらし
いというのです。
新たな物理学の発見に非常に興味をそそられますが、私達を取
り巻く時間の概念が大きく変わろうとしています。
時間とは何なのか。
そもそも日常生活においての時間とはわかりやすくするためごく
ごく狭い範囲において規定した産物にすぎず、逆にあってないよ
うなものとして認識してもおかしくないように思います。
思いや意識は簡単に時空を飛び越えどこへでも行く事ができる
わけで、意識自体を時間に組み込むことでがらりと変わり、ま
た肉体の老化という時間も逆行させることが可能ではと思った
りします。
話を元ににもどしますが、現在は時間の進み方が早いのでそれ
に対応した姿勢が不可欠になってくるように思います。多分直
観でどんどん物事を進めていかなければ追いついていけないそ
んな時代なのかもしれません。
ぼーとして過去や未来に思いを馳せる暇があったら(それも必
要ですが)現在、「今ここに」という時間が止まるくらいの集
中力が要求されている気がします。